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2012年11月12日  文明化五部族
2012年11月12日  クリーク族の歴史
2012年11月12日  クリーク族
2012年11月12日  歴史 その3
2012年11月12日  歴史 その2

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歴史 その3



-新しい南部の起源(1876年〜1914年)-
1871年6月1日アラバマ&チャッタヌーガ鉄道とサウス&ノース鉄道の交差点予定地近くの土地の多くを販売した不動産のプロモーターによりバーミングハムが創設されました。鉄道の交差点の場所は鉄鉱石、石炭、石灰岩の、鉄鋼の製造に使われる3つの主要な原料の産出地として注目されました。バーミングハムの創設者は、鉄と鉄鋼生産の中心地として新しい町を広告するためにイギリスの一番の工業都市の名前(バーミンガム)を採用。コレラの発生にもかかわらず「南部のピッツバーグ」の人口は1900年から1910年まで、38,000人から132,000人に増えました。 化学的、構造的な規制でアラバマの鉄と石炭から作られる鉄鋼の品質は制限。しかしこれらの材料は理想的な鋳物用銑鉄を作り出し、低い輸送費と労働コストのためにバーミングハムは急速に最大にして最も安価な鋳物用銑鉄の生産地となりました。1915年までには国の鋳物用銑鉄の25%がバーミングハムで生産されました。

-新しい南部(1914年〜1945年)-
フェルドマン(1999年)は第2次KKKは単なる扇動集団ではなかったことを示しました。それは政治的社会的修正への真の願望を示していました。 アラバマのKKKメンバーは、白人に利益をもたらすよりよい公立学校、有効な禁止の実施、拡張道路工事、その他の「進歩的な」尺度の最前の支持者でした。 1925年までにクランは州の強力な政治勢力になりました。J・トーマス・ヘフリン、デーヴィッド・ビブ・グレーヴス、ヒューゴ・ブラックといった政治家は、KKKの会員を操作し、州を長い間支配していた産業経営者とブラック・ベルトの農場主に対抗。 1926年元KKK支部長のビブ・グレーヴスは、KKKの支持で知事職を獲得。彼は教育基金の増加、よりよい国民の健康、新しい道路工事、労働者寄りの法律を押し進め州の歴史で最も進歩的な政権のひとつを導きました。同時に恐らく州政府の保護を得たKKKの自警団は、1927年にアラバマ全域で黒人と白人両方をターゲットにした物理的なテロの波を開始。保守的なエリートはこれに反撃。主要紙はクランを暴力的で非アメリカ人として言論での攻撃を続けました。保安官はクランの暴力を摘発。反撃はうまくいき1928年に州はアル・スミスに投票しクランの公式のメンバーは1930年までに6,000人未満にまで減少しました。


歴史 その2



-脱退と南北戦争(1861年〜1865年)-
北部連邦支持の「ユニオニスト」は1851年と1852年の選挙で成功を収めましたが、不確実な感情は南部にカンザス・ネブラスカ法案の可決を生じさせ1852年以降の奴隷制の扇動の経過は1856年の州民主党大会での「アラバマ・プラットフォーム」の復活へと導きました。
1861年1月11日アラバマ州は61対39の賛成多数で連邦からの脱退の法令を採用。
1861年2月18日までアラバマは非公式にアラバマ共和国と呼ばれました。
1861年2月4日アラバマ州はすぐにモンゴメリーで組織されたアメリカ連合国に参加。
ムーア知事は情熱的に連合国の戦争の努力を支持。戦闘が始まる前でさえ、彼は連邦の施設を差し押さえノースイーストにライフルを買いにエージェントを派遣し州にある武器を探しまわりました。州の北部でいくつかの抵抗があったにせよアラバマ州はアメリカ連合国に参加。5月連合国政府は疾病の季節が始まる前にモンゴメリーを捨てバージニア州リッチモンドに移転しました。 南北戦争初期ではアラバマでは軍事行動の光景は見られませんでしたが、州は連合国の兵役に武器を携帯できるすべての白人の約12万人の兵士を送りました。 大部分は地元で募集され顔見知りの上官に従い、そこで精神を磨いて故郷のつながりを強めました。医療の状況は厳しいものでした。 アラバマには設備の整った病院が少ししかありませんでしたが多くの女性が志願して病人や負傷者を看護しました。 特に1863年以降兵士の装備は乏しく、しばしば死者のブーツ、ベルト、水筒、毛布、帽子、シャツ、パンツを略奪して不足に充てていました。アラバマの兵士は数百の戦闘で戦いました。ゲティスバーグの戦いにおける州の損失は1750名の死者とそれ以上の多くの捕虜と負傷者でした。有名な「アラバマ旅団」は781名の死傷者を出しました。
1863年連邦軍はネイザン・B・フォレストの反対があったにもかかわらず、アラバマ北部を足場として獲得。
1861年から連邦軍はモービルを封鎖し、そして1864年モービルの外側の防備は連邦軍艦隊によって取り外されました。都市自体は1865年4月まで持ちこたえました。

-レコンストラクション(1865年〜1875年)-
大統領の再建計画によってアラバマの暫定知事は1865年6月に任命されました。 州の会議は同年の9月に開催され脱退の法令は無効であり奴隷制は廃止されたことを宣言。 立法府と知事は11月に選出され、立法府は一度アンドリュー・ジョンソン大統領に承認されましたが、代表議員を拒否した連邦議会は承認しませんでした。 1865年12月ジョンソンは、立法府が修正第13条を批准した後に知事の就任を認めるよう軍に命令を出しました。 しかし州立法府による黒人法または浮浪者取締法、年季奉公法の可決はプランテーションから町まで群れていた自由黒人の統制と、そして大統領の計画への州議会の敵意を激化させたその修正第14条の拒否が設計されました。 1867年議会のレコンストラクション計画は完成し、アラバマは軍事政府の下に置かれました。戦争が終了した2年後には自由黒人、スキャラワグ、カーペットバガーから成る新しい共和党が政権を握りました。 これらの分子に支配された州法制定会議が1867年11月に開催され普遍的な成年男子選挙権を与える構成の枠組みを固めました。 連合国のために戦った白人たちは公民権を奪われました。 議会は投票総数の大多数は十分であると制定し、かくして州法は実施され州は1868年6月に合衆国に再認され新しい知事と州立法府が選出されました。 しかし1872年の新しい政権は大きく失敗。
1874年保守民主党がすべての州の職員を選出し急進派の勢力は結局壊れました。
1874年の後民主党は州の政権に一定の支配力を持っていました。
1878年と1880年には州政府に指名候補を立てず、1882年にはグリーンバック党の候補者を応援。
1894年3名の下院議員に選出されたポピュリスト党と結合した共和党は多くの郡で政権を確保しましたが州議会では失敗し、次の選挙運動でのより少ない成功で野党であり続けました。 党派性は激しくなり民主党の無知な黒人の選挙民に対する不正の容疑は共和党とポピュリスト党の詐欺罪と民主党による暴力と争われました。 その結果、共和党とポピュリスト党の野党勢力と同様に民主党自体が分割され、その後の1901年、黒人の権利を奪った選挙権の制限を定めた新しい州法が採用されました。


アラバマ州の歴史 その1



アラバマは1819年に州になりました。1830年代からブラックベルト中心地の経済は奴隷を使った大きくて裕福な綿のプランテーションが支配的になりました。 他の場所では白人の貧困層はほとんどが自給自足の農家でした。1861年から1865年までアラバマは合衆国を脱退し、アメリカ連合国に加りました。 南北戦争の結果、人々は経済的な損失と辛苦を被りましたが、1865年には奴隷が解放。 レコンストラクションの時代の後、アラバマは支配的な白人と最近解放されたアフリカ系アメリカ人の間の高い人種的な緊張の中で、まだ綿に縛られた貧しく総じて田舎の州として現れました。 政治的に州は民主党一党に支持が集中し、国の指導者の多くを生み出しました。 1980年以降地方自治体の立法府ではまだ民主党が支配的ではありますが州は大統領選挙と州議員選挙において共和党への支持を強くしました。

-植民地化の時代-
ヨーロッパ人との接触以前に現在のアラバマに住んでいたインディアンは、アラバマ、チカソー、チョクトー、クリーク、コアサティ、そしてモービルがいます。 現在のアラバマの領域に入った最初のヨーロッパ人はスペイン人で、この地域をフロリダの一部として要求しました。 イギリスもまた、メキシコ湾北部の地域を要求。現代のアラバマの領地は1663年と1665年に当地を気に入ったチャールズ2世の特許により与えられたプロビンス・オブ・カロライナの地に含まれていました。フランスもまたこの地域を植民地化。
1702年フランス入植地がフォート・ルイスを含むモービル川に創設され、その後9年間ルイジアナ政府の首都となりました。
1711年フォート・ルイスは川の氾濫よって捨てられ、より高い地にコンデ砦が建設されました。これがアラバマで最初の恒久的なヨーロッパ人の入植地となります。 フランスとイギリスはこの地域を争い、それぞれの国がインディアン部族との強固な同盟を結ぼうとしました。
1783年9月3日のヴェルサイユ条約によって、イギリスはスペインに西フロリダを割譲しましたが同日に締結されたパリ条約により、イギリスはアメリカ合衆国にこの領地の北緯31度線以北のすべてを割譲。
1795年のマドリード条約で、スペインはアメリカ合衆国に北緯31度と32度28分の間のミシシッピ川東側の土地を割譲。3年後の1798年議会はこの地区をミシシッピ準州として編入。
1812年議会は西フロリダのモービル地区をミシシッピ準州に加えて、ルイジアナ購入地の中に含まれると主張。
1817年ミシシッピ準州は東西に分割されました。西部はミシシッピ州となり東部はトムビッグビー川流域のセントスティーブンスに暫定的な政府の首都を置いたアラバマ準州となりました。 アラバマのインディアンとアメリカ人入植者との間の紛争は、19世紀はじめに急激に増加。
1814年8月9日のフォート・ジャクソン条約によってクリーク戦争は終了。その条約の条項ではクリーク部族、レッドスティックス、中立の部族が同様に現在のアラバマ州のおよそ半分のエリアを割譲。
後に1816年チェロキー、チカソー、チョクトーらも割譲しインディアンにはアラバマ州の4分の1だけの土地が残るのみとなりました。 広大な土地のインディアンの所有権の突然の消滅はアラバマの地で育つことが可能な新しい綿花の種の開発と結びついて「アラバマ・フィーバー」として知られる入植と発展のラッシュを煽りました。

-州制の初期の時代-
1819年アラバマは合衆国の22番目の州として承諾されました。新しい州の最初の問題の一つは財政問題でした。 流通する通貨の量が人口の増加の受容にこたえるのに十分ではなかったので州立銀行の制度が設けられました。 州の債券が発行され資本を確保するために公有地が販売され、担保で借り入れた銀行紙幣が交換の手段になりました。 銀行からの収入の見通しをつけるため1836年に立法府は州の目的のためのすべての課税を撤廃へと導きました。 しかしこれは1837年恐慌によって銀行の資産の大半が破壊される前に出来ませんでした。
1830年インディアン移住法はクリーク、チェロキー、チョクトー、チカソー、セミノールを含む南東部部族のインディアン移住を引き起こした過程を始めました。
1832年連邦政府はキュッセタ条約に則りクリーク族の移住を準備。
1834年から1837年の間に実際の移住が起こる前に州議会は郡部にインディアンの土地を作り、移住者が押し寄せました。
州はブラック・ベルトでの奴隷による綿プランテーションの生産の中心地として栄え、自給自足の農家はより貧しい土地でかろうじて生計を立てていました。 1832年まで州には民主党一党しかありませんでしたが、無効化の問題によってその年民主党と州権党の2つに分割。
ほぼ同時期に野党として出現したのがホイッグ党でした。 しばらくの間ホイッグ党は民主党と同じくらいの勢力でしたが彼らは一度も州政府の主導権を取ることはありませんでした。 州権の派閥は少数ではありましたが、活動的で粘り強いリーダーのウィリアム・L・ヤンシーの下で彼らの最も急進的な信念を採用するため1848年に民主党を説き伏せました。 メキシコから取得された領土で奴隷制を禁止するウィルモット条項をめぐる扇動の間ヤンシーは1848年民主党州大会で「アラバマ・プラットフォーム」として知られる政治要項の採用を促しました。それは議会も領土の政府も領地において奴隷制度を妨げる権利がないこと、これに反対する論を持った人々は民主党ではないこと、そしてもしも大統領候補者がこれらの問題を支持しないならアラバマの民主党は支持しないだろうことを宣言。多くの民主党員が加わった州権派閥は南部権利党を設立し、協定の破棄を要求し将来の侵害への抵抗を擁護し脱退の準備をしました。 一方で残りの民主党員が参加したホイッグ党は「ユニオニスト」として知られる北部の連邦政府支持者の党を作り、不本意にも協定を受け入れ脱退の「憲法上の」権利を否定しました。